早春の近代化産業遺産「トロッコ道」を行く 2025年3月26日(訪問)

龍谷大学 政策学部 教授 内田恭彦

 トロッコ道は1927年頃から京都大学が当時の芦生演習林(現在は芦生研究林)内で栽培・生産していた椎茸、木炭および木材などを運搬するものとして7.7kmにわたって整備していったトロッコ軌道の廃線を、現在道として活用しているものです。

トロッコ軌道自体は芦生の演習林の事務所前から1934年に赤崎まで、そして最終的には1950年に野田谷まで開通しています(赤崎、野田谷とも演習林内の地名)。トロッコはその当時の演習林内に存在していた集落の人々の生活のための移動・運搬にも利用されていました。

しかしその後、電気にエネルギーがシフトしたことから木炭は製造中止となり、木材も第2次大戦 後の復興需要が一段落したことと輸入木材の普及により需要が大幅に落ち込み、また1961年に芦生演習林内の最後の集落である灰野が廃村になり、加えて1988年に京都大学が演習林内の木の伐採を原則禁止にしたことからトロッコの需要は実質的になくなりました。

2009年に近代化産業遺産(山間地の産業振興と生活を支えた森林鉄道の歩みを物語る近代化産業遺産群)としてトロッコ道(正式名称:京都大学芦生研究林軌道)が経済産業省より認定されています。

今回は2025年3月26日に芦生山の家のガイド岡優香さんの案内で、京都大学の芦生研究林事務所前からはじまるトロッコの廃線路に沿って、由良川(この辺りでは美山川と呼んでいます)本流沿いの景色や自然を楽しみながら残雪で先に進むことのできないところまで歩いてきました。



1.戦後復興・近代化を支えた人工林

トロッコ道はV字峡谷を流れる美山川(由良川)本流に沿って続いています。川と崖の間の狭い平地と切り立った崖を削ってわずかな場所をつないで作られたものです。

昭和初期、日本が当時の満州に勢力を広げていた頃に、ここでは崖を切り崩し、トロッコ軌道が整備されていったのです。当時の仕事がいかに大変なものだったか偲ばれます。


旧灰野集落までは左側は由良川本流(美山川)で右側には切り立った斜面に植えられた杉の人工林が続いています。
植えるのに大変な苦労があったであろうことが推測されます。日本全国にある杉林と同様に、芦生の杉の人工林も1950年~1960年代に自然林の伐採の跡地に戦後の都市の復興需要に応えるために数多く植えられたのもので、いかにその当時日本が木材を必要としていたのかが分かります。

しかしこれらの杉が成長する前に復興需要は終わってしまいました。当時日本政府は都市の木材需要に対して国内産の木材だけでは足りないことから木材輸入を認めることで対応しました。

これによりその後も輸入木材に対して価格競争力の弱い国内産の木材は太刀打ちできず、国内林業の衰退を招きました。これは芦生をはじめ林業が主要産業だった多くの山間地域における少子高齢化の原因の一つでしょう。
ビジネス上条件の悪い場所に植えられた杉の林は、歴史の中で存在価値を失ったままの状態となっています。 トロッコ道と杉の人工林は日本の戦後復興と近代化のもう一つの側面に気づかせてくれます。


2.芦生の自然林の魅力


一方で美しい自然林も見ることができます。この辺りは暖温帯林と冷温帯林の移行帯にあり、北方系の植物と南方系の植物が混在しています。また日本海側と太平洋側の両方の気候の影響を受けるところでもあり、植生が豊かなのが魅力です。

トロッコ道沿いに残る自然林には樫の木が多くみら れます。樫の木は南方系の植物です。トロッコ道はおよそ標高400m前後のところにあるので、この辺りは暖温帯林の特徴を有していますが、標高600mを超えると北方系のブナの木が多くなり冷温帯林になります。


この辺りは氷河期の植物にとってのレフュージア(広範囲にわたり生物が絶滅する環境下で局所的に生物が生き残った場所)だったことが分かっています。この地域は急峻な山に囲まれているので、南方系植物にとってわずかな距離で暖かい場所に移動できることから樫も生き延びることができたのでは、と勝手な想像が膨らみます。

自然林はもう少しすると芽吹きます。そして山が優しい緑色に包まれ、生き生きとしてきます。この美しさは広葉樹の自然林ならではのもの。きちんと後世に残していきたいものです。

またガイドの岡さんは由良川本流(美山川)の青白い水の色を、この時期にしか見られない雪解けの春の色と話していました。自然の中では水にも季節の色があるのですね。


3.自然林に忍び寄る近代化の影響


自然林にも近代化の影響が忍び寄ってきています。
トロッコ道のすぐ横を流れる由良川本流(美山川)の所々にオオバアサガラの林があるのですが、まるで街にある公園のようではありませんか?

下草がなく、高い木がバラバラと生えているからです。下草が生えていないのは鹿が全て食べてしまうからです。下草がなくなり裸地となると土の保水力が低下し、また窒素などの植物に必要な養分も減ってしまうのです。


 実はオオバアサガラはシカが好んでは食べない木です。しかし地上から1.3mぐらいまで鹿によって樹皮が食べつくされているという報告があります。芦生ではシカの数が増え、本来シカが好まないような植物まで食べなければならないほど食糧不足になっているのです。ガイドの岡さんはオオバアサガラが世代交代できないのではないかと心配していました。

シカがここまで増えたのは、少子高齢化により猟師が少なくなったこと、温暖化で雪が少なくなり越冬できる鹿の数が増えたことなどが主な原因だとされています。地球規模での近代化による化石燃料の大量使用がその背景にあるのでしょう。


4.苔の森


 トロッコ道(灰野~七瀬谷出合の間)は日本蘚苔類学会が選定する32の「日本の貴重なコケの森」の1つです。芦生の森では約50種類ほどの苔が確認されている、とのことです。選定されている区間は灰野から、ということでしたが、それまでにも多くの美しい苔類がたくさんありました。スタートして10分もしないうちにトロッコ道の端や崖から湧水が少しずつ出ており、苔が生育しやすい環境であることを実感させます。

今回はオオカサゴケ、スギゴケ、ヒノキゴケ、タマゴケ、シラガゴケ、ジャゴケ、マツタケジャゴケなどがありました。

オオガサゴケは岡さんが用意してくれていた小さな霧吹きで水をかけると緑の美しい傘を開き、スギゴケは小さな針葉樹林のような姿をし、ヒノキゴケは狐のしっぽのような愛らしい形をしており、タマゴケはしっかりと作られた緑の絨毯のようでした。シラガゴケは確かに白髪のような色でした。面白いのが一見ジャゴケとマツタケジャゴケは似ているのですが、においが全く異なります。ジャゴケはハーブのような清々しい香りですが、マツタケジャゴケはその名の通り香りがすると言われています。筆者にはインスタント食品に使われているマツタケの香料のような香りに思えました。芦生の森は足元にも大自然が広がっています。



5.きのこ


 芦生の森はきのこの数も豊富です。京都大学芦生研究林のホームページ(ホームページ内の資料含む)では413種類が確認されていること、その中には京都府の絶滅種とされているキイロスッポンタケや絶滅危惧種に指定されているタマノリイグチも確認されているとのことです。

岡さんが大変面白いものを見つけてくれました。リョクショウグサレキンという緑青色したきのこに染められた木です。今回はきのこの子実体(きのこの傘・ひだ・柄の部分)は見つかりませんでしたが、この木片はリョクショウグサレキンが以前ここに生えていたことを示すものです。とても綺麗な色でした。

次に見つけたものは地衣類と呼ばれるものの一つです。地衣類は菌類と藻類が共生しているものだということで、国立科学博物館のホームページによると「菌類は藻類に安定した住み家と生活に必要な水分を与えるかわりに、 藻類が光合成で作った栄養(炭水化物)を利用して生活します。
両者の共生関係は非常に密接で、地衣体の形態、生理機能、繁殖のしかたなどは単独の生物と同じように遺伝します。つまり、あたかも独立した生物のように見えるというわけです。地衣類は19世紀中ごろまでは苔の仲間とされていましたが、現在では菌類として分類されています。不思議な生物です。

そしてなんとも美味しそうな天然の椎茸もありました。

ただしここは京都丹波高原国定公園内。勿論採って持ち帰ることは出来ません。芦生の森の中を散策すると秋と早春に時々見かけます。かつて住んでいた人々は、こうした自然の恵みと共に暮らしていたのでしょう。




6.灰野集落跡


 スタート地点から1.6kmぐらい歩いたところに灰野集落跡があります。芦生集落まで電気が通ったがその奥の灰野まで来なかったことから、1961年に最後の方がここを離れたということです。当時は同集落に6軒の家があったという話が残っています。  

灰野の歴史を記した看板が残っていました。それによると嘉永15年(1638年)に下流にある南村や北村(現在かやぶきの里として有名になっている集落)、そして芦生集落から一つ下ったところにある田歌村などから山番として移住してきたとのこと。1650年には灰野よりもさらに奥に移住した人がいたが、その奥には木地師が住んでいた。

そして最盛期には8軒が灰野で暮らし、旅人相手に宿を開く者もおり、夏には松上げ(京都の山間部に残る伝統の火祭りで、愛宕信仰に基づく、防火・豊作祈願や精霊送りのためのもの)や盆踊りが開催されていた、ということです。山仕事のほかヤマメを釣り、猟をして生計を立てていたということです。


 現在家は跡形もなく、かつて家を建てるために土地を造成したことを示す石垣や平らな土地、水路などが残っています。平らに造成された土地には家を建て、また小さな圃場を作り農業を営んでいたとのこと。そうした土地、およびその裏山の急な坂に数多くの背の高い杉が立っており、廃村後にも杉の植林がなされたことが分かります。


 そんな集落の一角に唯一木造の建物がしっかりと残っています。灰野神社です。鳥居の上にはプラスチックの波板が取り付けられており、廃村から60年以上経つにもかかわらず今でも管理されています。

わずかに残った神社は近代化によって忘れ去られた人々の生活と近代化のために植えられ、そして放置された杉にそっと寄り添っているようでした。周囲には大きくなった椿の木に今年最後の花が一つだけ咲いていました。





7.終わりに~近代化・都市・田舎


 灰野集落を過ぎて直ぐに雪がトロッコ道を塞いでおり、今回はここまでとなりました。

近代化産業遺産に指定されているトロッコ道を歩き実感したことは、近代化は大変便利な近代都市を生み出したが、その裏でそれを支え、犠牲を払い、忘れ去られた田舎があること、そして近代化の中で失われてきている自然と伝統を守る田舎の有難さでした。

「効率性」という基準ですべてを判断し、より一層の「効率性」を追求していくことを競う都市の中で暮らす我々にとって、芦生など田舎に残された自然や伝統にある「やすらぎ」や「豊かさ」を感じ、明日への活力を得ることがいかに重要なのかということでした。新たな都市と田舎の関係づくりが待たれます。

注:トロッコ軌道の建設・完成時期、芦生の森の植生、灰野の廃村時期、苔の種類などは各種資料および関係各位等にて確認を取っていますが、資料や専門家によって内容が異なっている場合もあります。これはあくまでもエッセイであることをご理解ください。